4 明け方、外ハネの蒼い髪の毛を朝日に照らされたブルーノが寝ぼけ眼のままリビングに現れた。互いに短くおはようと挨拶を交わすなり、今日も二人は黙々と作業を始める。変わらないポッポタイムの朝、鳥のさえずりが耳に届き始める。 続いて出勤のためにクロウがリビングへ顔を出した。支度を早く終えたのか、欠伸をしながら遊星が座る椅子の背に肘を乗せ、開発画面を見つめる。 「クロウ、今日は早いな」 「魔法使いサマの術が見たくて」 普段遊星とブルーノが作業に熱中していても割り込まないクロウだったが、珍しく画面の文字列をぼんやりと眺める。昨日、会話の途中で切り上げてしまったクロウなりの気遣いかもしれない。 「だそうだ、ブルーノ」 「プレッシャーだなあ。魔法使いなんて……。ボクが魔法を使えるのは、遊星のおかげでもあるんだよ」 謙虚な魔法使いは共同開発者でもある遊星へのリスペクトを怠らない。 「言ってくれるな。ブルーノの書いたコードは本当に魔法のように動くんだ。オレが下手に修正したら、壊れてしまうんじゃないかと不安になるくらいだ」 冗談混じりに答えた遊星だったが、本音だった。ブルーノの芸術的なコードに、いくら修正とはいえ自分が手を加えるのは惜しい。それがたとえ、プログラムがより良く稼働するために必要な改良だったとしても。それほどに、遊星にとってブルーノのプログラムはただの文字列ではない付加価値を持っていた。 「そんなことはないさ。プログラムは遺伝子みたいなものだよ。色々な人の手が加わるからこそ最適化して、生き続けられるんだ」 「なんかまた小難しい話が始まったな」 ぼーっと話を聞いていたクロウが声を挟んだ。トリックスターを自称するだけあって、クロウの嗅覚はおおむね正しい。 「遺伝子は自己複製を繰り返す。すべての生物個体は遺伝子というプログラムを運ぶための乗り物、方舟みたいなものだね」 ブルーノの独特な持論が続く。これは彼のオリジナルの言葉だろうか? 「そうして何度も手を加えられ、推敲されて生き残った遺伝子……プログラムを乗せて走るDホイールは、正に”遺伝子の乗り物”とも考えられないかい?」 「遺伝子の乗り物か…」 ブルーノの言い回しを遊星は脳内で噛み砕く。身体は遺伝子を守るための外壁、という意味なのだろう。まるで遺伝子そのものが本体で、乗り物である身体は遺伝子の端女というように。 「なら、オレたち人間は」 「そう。ボクらはみんな、”利己的な遺伝子”の乗り物なんだ」 生物は、利己的な遺伝子の乗り物。 ”利他”が服を着て歩いているようなブルーノからは程遠い言葉が出て、忙しなく稼働していた遊星の手が止まった。遊星はブルーノに向き直って、小さく聞き返す。 「利己的な遺伝子?」 「って、昔の科学者が言ってたんだって」 ──あくまで比喩だけどね。 ブルーノなりのフォローなのかもしれないが、その笑顔の真意が遊星にはさっぱり読めなくなってしまった。 ブルーノは時折、理知的な例えを引用する。 遊星も独学なりに科学分野に手をつけてきたが、優星の手の届かない範囲にブルーノは詳しい。ブルーノは特に古典と称されるような科学──それも生物科学や遺伝工学など、その知識の幅は多岐に渡っていた。トップスである著名な科学者の父のもとに生まれたとはいえ、サテライト育ちで専門高等教育を受けたことがない遊星にとっては、ブルーノの口から紡ぎ出される言葉はどれも非常に興味深いものだった。特に、生きるため機械工学や技術的な手仕事に努力を注いできた遊星には、数歩離れた分野の話だったからだ。 だがこの遺伝子の例え話は、妙な違和感で遊星の心を揺さぶるものであった。 「ボクという個体が利他的に振る舞うことと、ヒトという種が生存し続けることは決して相反しないよ」 ブルーノが例え話に交えて生物の”利己的遺伝子”の講釈を始めた。地球が誕生してから数億年、巨大な遺伝子プールの中から自己の遺伝子を複製する個体が現れたこと。その中からさらに正確で、速く、大量に自己複製する個体が生存に有利だったこと。その自己複製の過程で生まれたエラーから別の生態が生まれたこと。利己的な個体のほうが利他的な個体よりほとんど優位に立つこと。それにもかかわらず、卵を産めぬメスの働きバチはなぜ命懸けで巣を守るのか……。 頭の中でブルーノの言葉を翻訳するのに忙しい遊星に変わって、痺れを切らしたクロウが短く尋ねた。 「んじゃ、オレたちに力を貸すのも?」 クロウの問いが鋭いのは、幼少の頃から生存戦略を試される世界で磨かれたからだろうか。 「ボクの中に内蔵された遺伝子というプログラムが、ヒトという種を生き残らせるためにキミたちへの利他行動を実行させているのかもしれないね」 言葉尻も表情も柔らかいが、ブルーノの紡ぎ出した言葉だけを切り取ると冷たく聞こえた。淡々と遊星とクロウに優しく説く、その姿だからこそ余計に一切の人間味を感じさせない。まるで”そう返答するように人間にプログラムされた”ロボットのような台詞だ。初めて会ったあの日、「君たちの夢を叶える歯車の一つになるよ」と屈託なく微笑んだ青年とは、あまりにも程遠い。 遊星は話をそれとなく逸らした。この薄寒い、人倫の感性を裏切るような話を掘り下げた先に、一体何があるというのだろうか? 「ずいぶん物知りだな。オレと会った時、遊星歯車の話をしてくれただろう」 ──それに父のことも知っていた。記憶喪失なのに。 「え? そうかな……」 先程までの機械的な返答は何処へやら、どこか惚けたような──記憶喪失なのだから仕方がないのだが──表情で空を見つめた。記憶喪失の魔法使いは技術者にも、優秀な導き手にも、穏やかでひょうきんな隣人にも変身する。 「でも、これは生物科学? 進化生物学かな……。きっとボクの専門じゃないよ」 それには遊星も納得できるものがある。「借り物の言葉」といえば良いのか、どこかの誰かから拝借してきたような、又借り特有の距離感があった。 「誰かから教わったのかもしれないな」 そう言いながら遊星は手元の作業に戻った。これだけ腕利きのメカニックなのだから、記憶を失う前も──ブルーノはきっと優秀な誰かの力になっていたのだろう。人柄も良く、献身的。そんなブルーノが、人の輪の中で活躍している姿は想像に容易い。 二人が抽象と具象の世界を往来している間に、いつのまにかクロウは姿を消していた。自由なカラスは、今日も自らと仲間の生存を賭けて、配達仕事で地上を羽ばたいている。
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明け方、外ハネの蒼い髪の毛を朝日に照らされたブルーノが寝ぼけ眼のままリビングに現れた。互いに短くおはようと挨拶を交わすなり、今日も二人は黙々と作業を始める。変わらないポッポタイムの朝、鳥のさえずりが耳に届き始める。
続いて出勤のためにクロウがリビングへ顔を出した。支度を早く終えたのか、欠伸をしながら遊星が座る椅子の背に肘を乗せ、開発画面を見つめる。
「クロウ、今日は早いな」
「魔法使いサマの術が見たくて」
普段遊星とブルーノが作業に熱中していても割り込まないクロウだったが、珍しく画面の文字列をぼんやりと眺める。昨日、会話の途中で切り上げてしまったクロウなりの気遣いかもしれない。
「だそうだ、ブルーノ」
「プレッシャーだなあ。魔法使いなんて……。ボクが魔法を使えるのは、遊星のおかげでもあるんだよ」
謙虚な魔法使いは共同開発者でもある遊星へのリスペクトを怠らない。
「言ってくれるな。ブルーノの書いたコードは本当に魔法のように動くんだ。オレが下手に修正したら、壊れてしまうんじゃないかと不安になるくらいだ」
冗談混じりに答えた遊星だったが、本音だった。ブルーノの芸術的なコードに、いくら修正とはいえ自分が手を加えるのは惜しい。それがたとえ、プログラムがより良く稼働するために必要な改良だったとしても。それほどに、遊星にとってブルーノのプログラムはただの文字列ではない付加価値を持っていた。
「そんなことはないさ。プログラムは遺伝子みたいなものだよ。色々な人の手が加わるからこそ最適化して、生き続けられるんだ」
「なんかまた小難しい話が始まったな」
ぼーっと話を聞いていたクロウが声を挟んだ。トリックスターを自称するだけあって、クロウの嗅覚はおおむね正しい。
「遺伝子は自己複製を繰り返す。すべての生物個体は遺伝子というプログラムを運ぶための乗り物、方舟みたいなものだね」
ブルーノの独特な持論が続く。これは彼のオリジナルの言葉だろうか?
「そうして何度も手を加えられ、推敲されて生き残った遺伝子……プログラムを乗せて走るDホイールは、正に”遺伝子の乗り物”とも考えられないかい?」
「遺伝子の乗り物か…」
ブルーノの言い回しを遊星は脳内で噛み砕く。身体は遺伝子を守るための外壁、という意味なのだろう。まるで遺伝子そのものが本体で、乗り物である身体は遺伝子の端女というように。
「なら、オレたち人間は」
「そう。ボクらはみんな、”利己的な遺伝子”の乗り物なんだ」
生物は、利己的な遺伝子の乗り物。
”利他”が服を着て歩いているようなブルーノからは程遠い言葉が出て、忙しなく稼働していた遊星の手が止まった。遊星はブルーノに向き直って、小さく聞き返す。
「利己的な遺伝子?」
「って、昔の科学者が言ってたんだって」
──あくまで比喩だけどね。
ブルーノなりのフォローなのかもしれないが、その笑顔の真意が遊星にはさっぱり読めなくなってしまった。
ブルーノは時折、理知的な例えを引用する。
遊星も独学なりに科学分野に手をつけてきたが、優星の手の届かない範囲にブルーノは詳しい。ブルーノは特に古典と称されるような科学──それも生物科学や遺伝工学など、その知識の幅は多岐に渡っていた。トップスである著名な科学者の父のもとに生まれたとはいえ、サテライト育ちで専門高等教育を受けたことがない遊星にとっては、ブルーノの口から紡ぎ出される言葉はどれも非常に興味深いものだった。特に、生きるため機械工学や技術的な手仕事に努力を注いできた遊星には、数歩離れた分野の話だったからだ。
だがこの遺伝子の例え話は、妙な違和感で遊星の心を揺さぶるものであった。
「ボクという個体が利他的に振る舞うことと、ヒトという種が生存し続けることは決して相反しないよ」
ブルーノが例え話に交えて生物の”利己的遺伝子”の講釈を始めた。地球が誕生してから数億年、巨大な遺伝子プールの中から自己の遺伝子を複製する個体が現れたこと。その中からさらに正確で、速く、大量に自己複製する個体が生存に有利だったこと。その自己複製の過程で生まれたエラーから別の生態が生まれたこと。利己的な個体のほうが利他的な個体よりほとんど優位に立つこと。それにもかかわらず、卵を産めぬメスの働きバチはなぜ命懸けで巣を守るのか……。
頭の中でブルーノの言葉を翻訳するのに忙しい遊星に変わって、痺れを切らしたクロウが短く尋ねた。
「んじゃ、オレたちに力を貸すのも?」
クロウの問いが鋭いのは、幼少の頃から生存戦略を試される世界で磨かれたからだろうか。
「ボクの中に内蔵された遺伝子というプログラムが、ヒトという種を生き残らせるためにキミたちへの利他行動を実行させているのかもしれないね」
言葉尻も表情も柔らかいが、ブルーノの紡ぎ出した言葉だけを切り取ると冷たく聞こえた。淡々と遊星とクロウに優しく説く、その姿だからこそ余計に一切の人間味を感じさせない。まるで”そう返答するように人間にプログラムされた”ロボットのような台詞だ。初めて会ったあの日、「君たちの夢を叶える歯車の一つになるよ」と屈託なく微笑んだ青年とは、あまりにも程遠い。
遊星は話をそれとなく逸らした。この薄寒い、人倫の感性を裏切るような話を掘り下げた先に、一体何があるというのだろうか?
「ずいぶん物知りだな。オレと会った時、遊星歯車の話をしてくれただろう」
──それに父のことも知っていた。記憶喪失なのに。
「え? そうかな……」
先程までの機械的な返答は何処へやら、どこか惚けたような──記憶喪失なのだから仕方がないのだが──表情で空を見つめた。記憶喪失の魔法使いは技術者にも、優秀な導き手にも、穏やかでひょうきんな隣人にも変身する。
「でも、これは生物科学? 進化生物学かな……。きっとボクの専門じゃないよ」
それには遊星も納得できるものがある。「借り物の言葉」といえば良いのか、どこかの誰かから拝借してきたような、又借り特有の距離感があった。
「誰かから教わったのかもしれないな」
そう言いながら遊星は手元の作業に戻った。これだけ腕利きのメカニックなのだから、記憶を失う前も──ブルーノはきっと優秀な誰かの力になっていたのだろう。人柄も良く、献身的。そんなブルーノが、人の輪の中で活躍している姿は想像に容易い。
二人が抽象と具象の世界を往来している間に、いつのまにかクロウは姿を消していた。自由なカラスは、今日も自らと仲間の生存を賭けて、配達仕事で地上を羽ばたいている。